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ナポリを見て死ね! [外国語]

ナポリを見て死ね。

そんなセリフどこかで聞いたことがありますよね。 
誰が言ったのか知らないけれど、でもその言葉の様に、
ナポリは一見の価値があるのでしょうか? 
私はすでに一度は見ています。 
でも、まだまだ死ぬ気にはならない。
それが偽らざる心境。 

ナポリでの滞在は観光旅行のその一部で、
その滞在時間は、多分一瞬みたいなものだった。 
あちこち見て回った訳でもなく、
だた観光コースのほんの一部でしかなかったというのが事実。 
あまり心に残る印象はありませんでしたね。

でも、ナポリの港から船に乗ってカプリ島に行ったことは、
記憶の中にしっかりと生きています。 
何故かというと、一つにはその船上で、
ミネラルウォーターを買ったことが一つの大きな原因。

私は試にイタリア語でやってみたのです。
イタリア人の売店員の男性に
「Scusi sinore, posso avere un aqua minerale non gassata,
per favore.」とか言いました。
それが今でも、記憶に鮮明に残っているのです。 
勿論、そのセリフは相手に誤解無く伝わりました。 

その時初めて知ったのですが、
イタリアでは店員にその代金を渡すのではなく、
他にお金を受取る人がいまして、
その方に支払いをして、それから商品を受け取りました。 

日本ではあり得ないそんな現地でのやり方に驚きましたね。

誰かにそのやり方の文化について
説明を受けた訳でもありませんが、私の推測の域を出ませんが、
イタリアでは、それだけ雇われ人は
信用されていないのではないかと思いましたね。 

話は飛びますが、カプリ島の土産物の売店で、
小銭のコインが欲しくて、何かを買った記憶があります。 
それを買うのが本来の目的ではなかったので、
その時何を買ったのか記憶にはありませんが、
鮮明に覚えていることは、1ユーロの品物を買うのに、
多分10ユーロ札か何かを出したのだったと思います。 

日本では、問題なく嫌と言われずすぐに9ユーロのおつりが
帰ってくるのが当たり前だという感覚と認識でしたので。 
でも、その時最初に言われたのは、
多分丁度の小銭を出せとかいう趣旨だったと思います。 
でも、
その品物を買うのが目的ではなく、
小銭のユーロコインを入手するのが目的でしたので、
1ユーロコインは持ってないので、
10ユーロでお釣りをくれという問答をしたのだったと思います。 

で、無理やりお釣りを貰い、そのお釣りを数えてみると、
何とその店主はお釣り自体をごまかして渡しました。 
私は直ぐに、間違っていると抗議しました。 

その店の店主は見るからに紳士的でしたが、
なんとそんな人が、私が東洋から来た観光客だとみると、
ごまかしを意図的にしたのですね。 

相手は私の抗議を認め、
結局はだましのコインを正規の1ユーロに変えてくれましたが、
普通ならば、日本人なら1ユーロ位の事なら
英語の通じないイタリア人にそこまで言わないのではと想像しました。 
相手のやることもせこいなら、こっちの言う話もとてもせこい。 

でも、私は騙されたことに腹が立ち
泣き寝入りをしたくなかっただけなのです。 
そういう事を、金額が小さなことだからと言って黙認すると、
あとあと日本の観光客に
その悪い前例で類を及ぼす可能性の事を考えると、
勇気を出して抗議せずにいられませんでした。

多分その例のように、世の中はそんなものなのかも知れません。 
ちょっとした些細なことが後々に大きな類を及ぼしかねない。 

人は、徐々に大胆になるものですね。 
最初は問題にもならない些細なことが、
それがのちには高じて、大変な事になるとか。

現実に貧乏な私でも1ユーロ自体は別にどうでも良い金額で、
それ自体は別にどうなろうが、問題ではないのです。 
でも、お釣りを意図的に誤魔化されたという事には、
どうしても引き下がれなかったのです。 
私は、多分下手なイタリア語で言ったのだと思います。
でもその時のセリフが何だったのか記憶にはありません。 
ひょっとしたら英語でも抗議したかも知れません。 

結局、こちらの言う趣旨が伝わり、
相手のその年のしまった白髪の老人はスッと反論もせず
1ユーロを返してくれた記憶があります。 
だから、それ以上の問題にはしませんでした。

理不尽な事の嫌いな私が、その理不尽に抗議し、
結果を得たという事で十分納得いけましたから。 
それと、可能ならば、出来るだけ外国では
トラブルを避けたかったから、そこは穏便に済ませただけのこと。

自分の体内には理不尽を拒絶する
熱い血潮が流れていることを実感しましたね。 

主張すべきことは、それなりにその必要の程度に留めても
しかと抗議すべきは抗議するという精神。 
そんな精神を自分で認識しましたね。

その種の出来事は他でも思い出すことがあります。 
理不尽な事は一番嫌なこと。 
例えばもう随分前の事だけど、エジプトのカイロに着いて、
入国の際に、日本人旅行者の団体は皆一様に、
不本意ながらも不必要な高いビザ代を払わされたことがある。 

他の他国からの個人旅行者は、
いちいち観察していた訳ではないけど、
ビザの印紙を売る窓口で、
正規の費用を払って入国手続きを取っていた筈。 

ところが、我々日本人の団体は、
現地の旅行者の関係者からその印紙のようなものを買い、
それで入国した。 

私は、これはおかしいなと思い、
その印紙代を払う人に質問した。 
彼の返事は彼が個人的に売るその印紙代は
「彼の値段」だとのこと。 

つまり、平たく言えば、彼はあえて中に入り、
実際のコストよりも高い値段で旅行者に売り、
その利ザヤを稼いでいたという事になる。 
我々、現地の事情を知らない者を相手に、
そんなことをする。 

それが旅行者に関係ない人であれば、
正論で通すつもりが、
それから先その人のお世話になるのかも知れない
という事が脳裏をかすめ、
言いたいことを半分くらいしか言えず、
後は飲み込んでしまった。

金額の多寡ではない。 
それがまともな事かそうでないかが重要視か無視の判断基準。







英会話の練習はネットでする時代 [外国語]

昨今は誰でも海外旅行をする時代。
海外旅行をした事のない人を見つけるのがむしろ難しい時代。
それ程、多くの人が毎年海外に繰り出す。
極端な人の例を挙げたらなら、
訪問国の数は既に50か国を超えたという人にも出くわした。

団体ツアーに参加して、他の参加者を見ていると、
食事時などに、そつなく、
現地の方と意思の疎通を上手く図っている方が多い。
昔と違って、大抵の方は何度も旅行し、旅慣れしているから、
それ位の簡単なやり取りには苦労をしないのであろう。

習うより慣れろで、頻繁に旅行に出かけると、
そういう事も苦にならなく、できるようになるようだ。

でも、旅の醍醐味は、出来れば、現地の人々と、
もっと自由に話し合えたら、その旅の楽しみは倍増する。

自分の会話力に自信がつけば、行動も大胆にすることも可能。
すると、自然と経験できる世界が広がってくる。

例えば、自由行動の時に、タクシーなんかに乗っても、
勝手気ままに行きたい所へも連れて行ってもらえる。
それは、自分の会話力次第。

そういう時の為にも、普段から練習をしたいもの。
昨今はインターネットを利用した安価なコースもある。
これなどはその一例:

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ネット利用の場合は、わざわざ学校に通う必要はない。
それと、一般の会話学校のような高い授業料が必要ない。
予約して、好きな時に、好きなだけ、無理のない程度にやればいい。
「習うよりも慣れろ」で、その内楽しくなること請け合い。
一度お試しになる事をお勧めする。

今ではスマホででも学べるよ:

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語学の効用を考える [外国語]

今更という感じは否めませんが、
我々一般の人間が「なぜ語学を」するのか、
その意義について考えてみたい。

他の動物の場合や植物などの事情はよく知らないけれど、
人間は明らかに「言葉」を持ち、それを道具として操って、
人間の世界に独自の社会的機能をもたらしている。

人と人が意思の疎通を図るのは、すべてその「言葉」のお陰。
「言葉」を交わさなければ、お互いに、他の人が、
何を考えているのか、どんな思いでいるのか、
まったく分からない。
Body Languageと呼ばれるものも存在はするが、
それは限られた機能しか発揮できない。

人間が人間である所以は、その「言葉」故のこと。
その「言葉」という道具を上手く活用して、
その結果、人の「人生を豊かに」してくれる。

人間には多様な人種があり、多様な文化に分かれていて、
それぞれに独特の言語を操っている。 我々日本人は
日本語を話し、イタリア人がイタリア語でやっているように。

今の21世紀の世界では、近年の目覚しいIT技術の急速な
発展のお陰で、世界は急速に狭くなってしまった。
形の上では、依然、国境という目に見えない線があり、
人や物の実際の移動には、依然隔たりを認識させるもの
ではあるが、今や世界中のその殆どが、通信などの分野では、
もはや国境は存在しない。
時差という名の物理的影響を伴う時間的落差こそ存在するが、
人々が意思の疎通を図るという上では、人はいつでも、
どこの誰とでも、話し合いができる環境にある。
便利なことに、emailやskypeなどで、殆どコストも
気にせずにお話ができる時代。 
必要なものは「言葉」だけ。

人間社会のその多くは、経済的には、世界のあらゆる国々と
何らかの関係を持ち、一国が他国から孤立しているという場合は
もはや現実的ではない。 世界の諸々の問題解決や
関係の発展のためにも、世界の主要国などは、政治上でも
協調や協力が必要とされ、関係国同士でつながっている。

現実に、地球の温暖化、テロなどの例が示すように、
社会的にも、経済的にも、自然環境に関しても、
地球規模の問題が存在し、一国のみの身勝手な振る舞いは
許されない。 そういう全体的な背景をバックにして、
英語を母国語とする一部の例外の国々を除けば、
今や自国の母国語だけでは到底やっていけない状況にある。
好むと好まざるとに関わらず、他国と何らかの形で
「関わり」は避けられない。 それが現代の人類総体を
取り巻く環境。 こんなことはあえて言うまでもない
周知の事実。

そういう常識的な事を、あえて再確認したような状況下で、
地球上の人々は暮らしている。

勿論、そんな事がまったく眼中にない生活を営んでいる人も
少なくはない。 そういう生き方も選択肢の一つだろう。
だけど、社会的に何らかの形で他者との関係を持ち存在する
場合には、もはや大なり小なり、「語学」というものを、
避けて通れるものではない。

人と人が関わりを持つ場合には、意思の疎通に「言葉」が必要
であるように、その関わりの関係が他国とのものとなると、
一般的に「語学」は避けて通れない。 英語が世界で一番
使用頻度の高い言語ではあるが、場合によっては、
英語ではお話にならない場合もあるかも知れない。
そんな場合は、英米人といえども、外国語を使う必要性に
迫られる。

例えば、韓国では、英語はそれほど通じない。 タイ国でも
同じ傾向がある。 フランスでも英語はそれほど通じない。
日本でも、英語でべらべら喋る人はむしろ少数派だろう。
読み書きはそれなりに出来ても、耳で聞くことや喋ることは、
まったく別の話だ。 Hearing能力が向上すれば、その先の
進歩は期待できる。 まずは、hearingをなんとかしたいもの。
そこでおすすめは:

英語が苦手な人でも「英語耳」になれる英語教材


Speakingの本質は、語学そのものではなく、
本人の資質や経験や教養がものを言う。


さて、前述のような客観的事実の下で、語学の「効用」について
考えてみたい。 その「効用」というのは、語学をやることによって
もたらされる「メリット」、「特典」、「得すること」だ。
冒頭に書いたように、一言で簡単に言うと「人生を豊かに」
してくれることに役立つ。 では、その具体的中身はどうなのか。
期待できるその「メリット」は、多分人によって、その中身が
違ったものになるだろう。 想像できるのは、一つの新たな
言語を学ぶことによって、あらたな世界が自分の視界に
入ってくること。 それまでは、部外者であった故に知らなかった、
始めて見聞きし経験する新しい世界が、あなたの好奇心を
駆り立ててくれ、あなたにより広い豊かな世界へと誘ってくれる。
そうした未知のせかいへの扉を開ける鍵が「語学」であることには、
まったく疑念を抱く余地がない。



タグ:語学の効用

日本人と外国語の間の「溝を埋めよう」 [外国語]

日本人と外国語の間にある「溝を埋めよう」  

僕が何故、それなりに英語が使えるようになったか。
でもいまだに「耳で聞き取る能力」には、かなり問題がある。

留学経験など、長期の海外滞在経験のない僕のような者にとって、
外国語を究めることは、そんなに容易な事ではない。 
日本で生まれ、日本で育ち、短期の海外旅行位しか経験のない者にとって、
語学も、単なる「Made in Japan」でしかない。
だから、努力だけでは越えられない壁を感じる。 
それは、英語などの外国語を「耳で聞き取る能力」。 
それが一番の問題だろう。

その問題の解決方法はある: 

日本人をバイリンガルにする方法


ハリウッド映画を見ても、いまだ、かなり理解できない部分がある。 
CNNやBBCのVideoを見ても、やはり完璧な理解から程遠い。

それは、生まれながらず~と純粋培養のように、
日本語しか聞こえてこない世界で育ち、そんな環境に馴染んできたから。 
英語の話される環境に浸る機会がなかったので、
native peopleのあのmachine gun talkのような
あの「畳み掛けるような速さ」にはついていけない。

日本では、昔から中学生になれば、必修科目の一つとして、英語を学ぶ。 
最近の高校生などの教科書を見れば、我々の時代の物とは、
その中身の充実ぶりに隔世の感がある。
指導に当たる先生の質にも、
今の先生の方が多分上なのではないかと想像する。 
だから、現代の日本人の若者にとって、読解力は多くの学生が、
テストでもそれなりに高得点を取れても不思議はない。

書く力は、単に語学だけの問題ではなく、
その人の文章力の問題だから、辞書を片手に
自分の努力次第で、いくらでもその能力は向上する。 

ところが「耳で聞き取る能力」は、まったく話が違う。 
毎日毎日、自分の環境が英語を話す人々ばかりでもない限り、
なかなか「聞き取る能力」は、ままならない。
 
言い換えれば、毎日の生活環境の中で、「恒常的に」、
英語を「シャワーのように浴びる環境」に身を置けば、
言わば擬似的に、英語で日々の生活空間を取り巻けば、
結果は変わってくる。 
不思議と、聞き取る能力が増してくるのだ。 
それまで聞き取れなかったことが、
徐々に聞き取れるようになる。 
聞き取れると、赤ん坊が徐々に言葉を理解するようになる様に
自然な形で徐々に外国語が理解できるようになるから不思議だ。

聞き流すだけでそこそこの成果を上げることが出来るのは、
当然の理。 あなたもお試しあれ!



日本人は、元来語学べた [外国語]

歴史上鎖国を経験した我々日本人は、
一般論として、語学には馴染みにくい環境下にある。 
地理的にも、閉鎖的な島国という国土に住み、周りは殆ど日本人ばかり。 
日常的に、外国語を必要とする環境が全くない。
つまり、外国語がなくても、日々の生活に何ら問題がない。 
また、外国語を使おうと思っても、
周りに外国人がいない環境だから、なかなか練習もできない。 
つまり、環境の要素は、他国のそれとの比較において、ハンディがある。 
厳密には単一民族国家ではないが、
使用する言語に関しては、単一言語国家である。 
だから、概して、日本人は外国語が下手なのだろう。

アメリカ人は、違った事情で、語学下手が多いのかも知れない。 
英語は、世界で圧倒的に、一番多く使われる言語だから、
彼等はあえて、外国語の習得を必要としない。 
何処に行っても、大抵は、自分の母国語で通すことができる。 
あくまでも一般論だが、日本に在住する、英語を母国語とする人々に、
日本語の堪能な人を、あまり見かけたことがない。 
日本語が難解な言語であるという事実は認めるが、
それだけが理由ではない。 
多分、わざわざ日本語を勉強する、
その必要性を感じないのであろう。 
相手が、英語で喋って当たり前だと、思っているのかも知れない。 
少なくとも、日本語の勉強に打ち込み、
日本文化に入って行こうとする人は、いても少数派で、多数派ではない。

日本人の場合は、例えば二年以上の海外留学の経験者とか、
駐在などで何年か海外生活経験を持つ一部の人たちとか、
語学をプロとして教える教師などを除けば、
日本で勉強しただけで、実用的な語学に長けている人は、
あまりお目にかからない。 
国民が義務教育でやる英語でさえも、その状況だから、
その他の外国の言語を、どれも上手く使いこなせる、
いわゆる多言語習得者の日本人は、めったに出くわすことがない。 
トルコのトロイの遺跡を発見した、
シュリーマンのような語学の天才が出て来る素地は、
日本国内にはまったくないのではと思う。

「環境は人を造る」
そこで、海外で活躍する場合に、
問題となるのが、日本人の海外とのコミュニケーション能力。 
例えば、フルブライトに受かり、ハーヴァードなどで勉強した、
ごく一部の優秀な例外の連中を除けば、
平均的日本人は、海外との比較で、
その能力がそんなに高くない。 
歴代の日本を代表する首相経験者クラスでも、
まともな語学力を具備した人は、いても数える程だろう。 
だから、まともな外交ができない。 
通訳などの人を介さずには、無能そのもの。 
土地柄、多言語習得が不自然でないオランダ人などと比べると、
日本人とは、格段の差があるのではないだろうか。 
皆が皆、上手いかどうかという点には、多少疑問が残るが、
オランダ人は常に居ながらにして、
日常的に、フランス語やドイツ語や英語などでも話している。 
あの狭いヨーロッパの中では、それは彼等にとっては、
日常的な事で、何ら特殊な事ではない。 
この「環境の違い」は大きい。 
更に、日本人には、日常的に「議論する」とい習慣がない。 
それも、海外とのやり取りには、不可欠な重要な要素となる。 
余計な遠慮をせず、言いたいことを、言いたいように、
しかも上手く主張して、成果を得る能力が期待される。 
その前提が、まともに使用可能な語学力。 
それ無しでは、お話にならない。

日本人をバイリンガルにする方法

海外では、日本人個人は目立たない [外国語]

日本は、その一時期において、
経済的に、飛ぶ鳥を落とす勢いだった頃がある。 
日本は世界の為に、ODAなどで、多額の金を使ってきた経緯がある。 
でも、その世界への金銭的貢献が、
そのままきちんと、相手の国民に伝わっているのか、
疑問に思える節がある。

日本は金を出すだけで、
人的貢献などができなかったため、
その努力が、目に見えて相手国に伝わりにくかった、
のではないだろうか。 
一部には、海外青年協力隊のような、
ボランティア活動も知られてはいるだろうが、
一般には、人的協力は目立たない位しかないのでは。
それが、従来の日本人の海外との関わり方だった。 
ゼロではないが、まったく目立たない。

その理由の背景には、
国内的には有能であっても、
その有能さが、そのまま海外で通用するだけの、
能力発揮のための要素の多面性に欠けていた、
ということもあったのではないかと想像する。 

換言すれば、
海外で人を押しのけてでも「でしゃばれる」だけの能力を
持つ人材が少なかったのだろう。 

ハーヴァード大の、人気の高いサンデル教授の、
哲学の公開講座が過去に何度も連続してテレビで放映されていた。 
教授は、受講生との対話形式で、その講義を進めていた。 
いろんな学生が、教授の設問に、積極的に加わり、
自分の意見を言っていたのを、何度も目の当たりにしたが、
それらの発言者の中には、
ついぞ、日本人の学生を見つけることができなかった。 
あれは、日本人の現実を表している。  
理想を言えば、日本人の学生の活発な意見を聞きたかった。 
あれは、多分、現在の世界の現実の縮図みたいなもの。

国際関係が、国同士として、益々重要になりつつある現代、
世界をリードして、引っ張っていける能力のある人材の多数輩出が望まれる。 
日本人には、元来その資格があるはずなのだが、
言語能力の相対的な欠如と、
そうした場での適切な振る舞い能力に、依然未熟さは隠せない。

和を以って尊しとする精神は、
国内向けの、身内だけで通用するスキル。 
国内向け専用に取っておきたい。
 
むしろ、広く人類をリードする精神こそ尊しとすべきだろう。 
日本人に、実力を伴う言語活用能力さえ備われば、
それらは可能となると、公言しても過言ではない。
言語能力の裏内があれば、場馴れの為の特訓は、困難ではない。 
そのうち自然と場馴れするものだ。

我々に欠ける資質:

リスニングパワーをただ繰り返し聞いただけで、TOEICのスコアが200点もアップしました!!

旅行は、楽しい動機付けになる [外国語]

「語学」をテーマに書くと、OMG!  
それまで低調だった日々のアクセス数が、なんといきなり急上昇した。 
信じられない! だから、今日はその続きを書くとしよう。。。。

      --------------------

自分がした努力が、現実に海外旅行などの際に、
その効果を発揮してくれれば、
その効用は、更にやろうという意欲の源となる。 

海外旅行の好きな人口は多い。 
行先の国々も多様だろうと思う。 
例えば、フランスは、日本人が昔から憧れを持つ国の一つだ。 
アメリカ人にも、フランス好きな人も少なくないようだ。 
パリがテーマのハリウッド映画は、少なくない、 
それは、アメリカ人の一般の嗜好傾向を物語っている。 
「パリのアメリカ人」、「パリの恋人」などは、それを具現化した傑作作品だろう。

語学は、単なる「語学の為の語学」ではない。 
それは、未知の文化を身近のものにしてくれる、
地平線を広げる為のカギとして役立つ。
 
フランスを知るのに、フランス語の道具無しでは、
つぶさに、その何たるかを知ることはできない。 
まずは、フランス語という、使えるカギを持ち、
それを磨き、フランスの文化の中に入って行き、
フランス人と直に交流することも必要。

翻訳文化で満足していては、
その「本当のところ」が、ひしひしと伝わって来ない。 
翻訳した段階で、その本質は異質のものに変化してしまうから、
ワインに酸化防止剤を添加した段階で、
それはもとのそのワインではなくなるのと同じ理屈。 
余計なものは極力避けたいもの。 

映画が好きなら、吹き替えものではなく、
字幕スーパーのものでもなく、
フランス語そのままの作品を鑑賞したい。 

語学は何も最初から上手くなくてもいい。 
相手に十分伝われば十分。 
そうした興味の対象を持つことで、
その関係する国の言葉を、勉強する「楽しみ」を味わえば、
徐々に上達は不可避だし、自分の趣味の世界が広がる。

美術館を見て回るというのも、楽しもの。 
今年はルーブルの他に、その向かいのオルセーにも、
ルーブルの並びの、
モネの「睡蓮」で有名なあのオランジュリーにも行ってきた。 
勿論、出かける前に、「パリ・ミュウジアム・パス」を、
インターネットで前もって購入して。 

ファッションに興味を持つ人だっていることだろう。 
料理やフランス菓子、ワインやコニャックなどのお酒類、
更に、香水やオートクチュールも興味の対象になり得る。 
何に興味を持とうとも、またその興味がどのように広がろうとも、
その基になる言葉を、何とかしたくなる。 

事の本質に迫ろうとすると、本質を掴むためにも、その道具がいる。 
それが、オリジナル言語だ。 
同時に、脳の老化も抑えることができれば、言う事なし。 
そんなにいい趣味は、他になかなかない、というのが私の意見だ。

松岡洋右の語学力 [外国語]

かって松岡洋右外相は、国際連盟総会で「十字架演説」を行った。 
1932/12/08のことである。
松岡は満州事変後、国際連盟の議場にて、
日本が満州事変に立ち入った経緯を説明する中で、
中国によって日本の権益がどれほど侵害されたかという歴史事実を列挙し、
「日本はむしろ被害者だ」と断言して見せた。 
このように正々堂々と国の立場を説明できる政治家が戦後ほとんどいなくなった。 
だから誤った「加害者意識」というものが国民の間に定着してしまったのだろう。

一頃よく見かけた謝罪外交はあまりにも愚かだ。 
日本人特有の「謝ればすべて水に流せる」という考え方は、
決して中国に通用しない。 
中国には「水に流す」という思想はなく、
宿敵を許そうという心のゆとりもない。 
九十九代にも渡って仇討ちを逃げようとするのが中国人。 
彼等には忖度の余地はない。

日本人の敗戦のトラウマが、
自虐的な日本人を大量に繁殖させてきた。
政府が反省と謝罪のパーフォーマンスを繰り返すのもそのためだった。

松岡外相の国際連盟脱退の演説は「原稿なし」で一時間二十分に渡った。

http://www.c20.jp/1932/12jujik.html

彼の「十字架演説」に関する「引用」は上記のURLを参照。 
その時の印象が時空を超えてこちらに伝わってくるようだ。 
彼のような人材を輩出できれば、日本の国際的地位も高くなる。 
日本は単にMade in Japanの製品をつくるだけで満足することなく、
それ以外に、国際的に影響力を与え得る松岡外相のような人材を育てるべきだ。 
天然資源のない日本にある唯一の資源は、今の所、人材の資源しかない。 
メタン・ハイドレートもまだ先のことだ。 
国はその現実をしっかり認識し、
上手く人的資源を掘り当てるようにすべきだ。 
人材のない国に未来はない。 
将来の国際政治は、従来のアメリカ主導型に替わって、
日本が旗振りし、世界を動かしてもいい。 
国力を高揚し、人材を揃えば、それもまんざら夢でもあるまい。



語学力は、その人の総合能力 [外国語]

語学はテクニックではない。
基本的な言語能力が確立されておれば、
あとはその人自身の総合力がものを言う。 
つまり、その人が何に関して述べる資格があるのか、
どれだけ広く深く知っているのか、
というその人の中身の問題が、
その人の言語能力を左右する。 
それは外国語ででも母国語ででも然り。 

人は自分一人で経験できることには限りがある。 
だから、より多くの人の経験や知識を借用するやり方が、
一番手っ取り早いやり方。 
本はできるだけ多く読むことが望まれる。 
また、できれば自分ででも、
より多くいろいろ体験してみたいもの。 
海外旅行は、そういう目的には役立つ。 
楽しみながら体験ができて、実地に即した知識が増え、
より自分の成長につなげることができる。

普段は、自分の仕事や生活圏に関する語彙以外には、
あまりご縁がないもの。 
だから、身近でない分野の単語や表現には、
接する機会がないため、自分のものとはなりにくい。 
それは誰にでも普通のことなので、
できればひとつ新しい分野を取り上げて、
その分野に毎日首を突っ込む習慣をつけたい。 
例えば、普段まったくご縁のない中東の今の現状に興味を持つとか、
いつもややこしい前もって予知のできない北朝鮮の動向に興味を持つとか、
何かその選択された分野を毎日ちょっとのぞけるように、
パソコンの「お気に入り」に登録して、毎日覗いてみよう。 
すると、普段はそれまで使うことのなかった言葉に必然的に出くわすことになる。 
例えば「provocation」などという言葉は、
通常の一般の生活ではまったく関係のない言葉だが、
北朝鮮に興味を示すと、それはありふれた日常的に出てくる言葉となる。

政治の分野、経済の分野、一般社会の分野、国際情勢、何でもいい。 
これからやろうと思う分野ひとつだけでもいいから、
少しずつ馴染んでいくようにすればよい。 
そういうことを継続していると、
その内に、その新しい分野の言葉や表現が、
少しずつ無理なく習得できる機会ができるというもの。 
そういうことの繰り返しで、知識を収集して堆積していけば、
より広い分野で、単に知っているということで終わらず、
「自分の言葉」として、人に話ができるようになる。 
何も知らないようでは、話や会話をリードできない。 
相手が変わっても、誰とでも、どんな分野でも、
話をリードできることは理想的。 
自分の事ばかり話すというのはいただけないが、
ちょっとでもその話をリードできるという理想に近ずけるよう、
努力したい。 総合力の高揚は、そんな芸当を可能にする。

日本人をバイリンガルにする方法





タグ:語学力

中央アジアでは、二か国語は当たり前 [外国語]

中央アジアには、「スタン」という文字のつく国々がある。
「スタン」とは「土地」とか「国」とかいう意味のこと。
ウズベクスタン、カザフスタン、キルギスタン、
トルクメニスタン、タジキスタン。。。
これらは、かってはペルシャ帝国の支配を受けた国々で、
ペルシャ語の影響を受けた地域とのこと。

そういう歴史背景があるためか、
中央アジアはバイリンガルの世界。
テュルク語とペルシャ語、テュルク語と中国語など、
テュルク系統の異なる2系統の言語を日常的に、
並行して使用している人々が多いのだそうな。

歴史上、民族的には、はじめはコーカソイドのアーリア民族の世界。
9~10世紀頃から、アルタイ系言語(テュルク語、モンゴル語、満州語)を使う
モンゴロイドが進出。
そして、
永年に渡る両者の混血の結果、今日の中央アジアでは、
さまざまな人種的特徴を持った人々が住む世界となっていると言われる。
つまり、中央アジアは、「民族のるつぼ」であるばかりでなく、
「人種のるつぼ」とも言えるらしい。

中央アジアでは、総じて日本語熱は高いとのこと。
中でも人口520万人のキルギスは、
日本語好き、日本びいきの人たちが多い国で、
日本語を熱心に勉強している人が大勢いるとのこと。
頼もしい限り。



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