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「自虐史観」は、もうやめよう [日本人論]

先の大戦後、日本人は事あるごとに、中国や韓国から、
「日本は侵略戦争をした」とか、「A級戦犯を合祀している
靖国神社に参拝している」とか、既に正式にかたの付いた話を
何度も蒸し返され、実直な日本人は、そのたびに自虐の念に
さいなまされて来た傾向がとても強い。

そのように非難され続けてきたのは、一つには、
戦後日本人が自信を失い、もう一つは、歴史の事実が
どうだったのか、勉強不足で本当のところが良くわかって
いなかったから、それらの国々から言われるままに、
事実を確認せずに誤った認識をしていたから,
反論する術を持ち合わせていなかったからであろう。

でも、そのような自虐史観は、もうそろそろやめにしよう。
歴史をよく勉強し、その歴史上の本当の事実を正しく
理解し認識できれば、過去の失った自信を回復することができる。

そもそも、日本が侵略戦争をしたという前提に誤りがある。
本当の所は、日本は不本意ながら、日本の存亡の危機に直面し、
存続するためには、戦争を回避できない状況に送り込まれた
というのが実情だった。 現実に、当時の占領軍の
マッカーサーは、アメリカ合衆国上院軍事外交合同委員会で、
その旨を証言している。 「日本が戦争に飛び込んでいったのは、
安全保障上の必要に迫られてのことだ」と。 
彼は朝鮮戦争を経験して、やっとその事が分かったらしい。

残念ながら日本人の意識の中に、不本意ながら、
植えつけられてしまった、誤った自虐的なイメージとなった
その要因は、簡単に言えば、戦争で何もかも失い、
失意のどん底にいた時に、7年間もの長きに渡って
占領軍の管理下に置かれ、言論の自由はなく統制され、
彼らの都合のいいように再起不能なまでに洗脳され、
完全に骨抜きにされてしまったからだろう。

だから、ことあるごとに、中国や韓国から、既にかたがついた
話を蒸し返されると、国際的ルールを熟知しない過去の
一連の無知な日本の指導者たちは、誤って国家として、
それらの遠慮の知らない自己中の塊の国に対し
誤った対応を繰り返し、その不適切な誤りの繰り返しが、
日本人全般にも誤った認識を与え続けた。 
もうこれ以上の誤りの上塗りは罪悪に値する。

過去に我々が一般的に罪悪感を感じたのは、
中国に対しては「シナ事変」、「満州事変」と「南京事件」
でしょう。 しかし「シナ事変」に関しても「満州事変」に
関しても、中国人に罪悪感を抱く必要は全くない。
そんな根拠は何処にも全くない。 「南京大虐殺」の話も
戦後「東京裁判」の法廷で、「突如湧いて出た」事実無根の
でっちあげ。 それを裏付ける根拠には枚挙に暇がない。

アメリカは、実際に日本軍と戦闘を交えることによって
身をもって経験した、その日本人の持てる凄さに驚愕し、
将来、日本によって報復される可能性を想像し、
大いに恐怖感を抱いたのでしょう。 だから、
占領軍が戦後処理をする際に、
日本人が二度と立ち上がれないように、
二度とアメリカに歯向かうことのないように、
徹底的に日本人を再起不能にしようと考えたのでしょう。
日本の財閥など力のある組織を解体したと同時に、
日本人の頭の中を徹底的に洗脳したのです。
国土が無差別爆撃で焼け野原となり、
敗戦というとてつもなく大きなショックをまともに受け、
敗北感とつのる虚しさ襲われ、心に大きな空洞が
開いていた時でしたから、占領軍のそれらの目的が
遂行可能になったのでしょう。
占領下の言論統制下では、言いたいことも言えなかった
そうです。 敗戦後、マスコミや日教組、その他の左翼
などによる「自国を否定する宣伝」も大いに悪影響を
与えました。

他方、韓国に対しての罪悪感は、「韓国併合」や
「創氏改名」などが指摘されます。 でも、
それらも共に誤った認識です。

韓国は日本に併合される前に、既に歴史上、
元や漢の植民地であったという事実が、
歴然としています。 でも、彼らは、
侵略され続けた中国に対しては、それを理由に
謝罪を求めたことはありません。 同時に、
イギリスの植民地であった中国も、
イギリスに対し、謝罪を求めたことは、
一度もありません。 彼らが、
ことある事にその都度日本に謝罪を要求するのは、
「日本政府が安易に謝罪に応じるから」です。
他の国は、どこの国も、謝罪を求められても
突っ張ります。 基本的に、大前提として、
戦争は国際法上、「合法」なのです。
だから、戦争で人を殺しても罪にはならないのです。
現実に国家が他国に謝罪するなどというような
非常識は、「どこの国もしない」。
「日本だけが特殊」なのです。

例えば、同じ敗戦国のドイツは、国としては
一切謝っていません。 当然、賠償金も
一切払っていません。 実行してのは
ユダヤ関係に対する個人賠償のみ。

日本は、国家として他国に謝罪する
「常識外の愚行をする国」。 同時に「贖罪国家」です。 
そんな態度だから、なめられるのです。
もうこれ以上、国益を損なわない為にも、
言うべきことは、しゃきっと言わなければなりません。
ゆすりの習慣を持つ隣国に対しては、
正しい歴史認識を身に着けたうえで、
毅然と対処してもらいたいもの。
その為には少なくとも政府関係者等は、
もう一度日本の本当の歴史をよく勉強し、
過去の誤った認識を新たにする必要があります。
その観点から言えば、過去の一連の総理は、
総理失格です。 我が国の利益を守れないようでは、
我が国の総理の資格なし。
国民から吸い上げた血税を、みすみす理不尽に他国に
意味なく供与する愚かな行為は、非国民のする行為です。
そんな事をしてきた過去の為政者には、国政をする
資格などありませんでした。 国政は一にも二にも、
国民の安全確保と国益確保でしょう。
その二点に関しての失格者はオンパレードでしょう。

話が少し戻りますが、韓国の「創氏改名」は、
日本が彼らに強いたものではありません。
彼らが自主的にそれを積極的に望んだのです。
何千年もの間、中国に頭を押し付けられていたのが、
満州事変後、韓国人が満州に行って中国人に会った時、
日本人名を使うと威張られる。 それが「創氏改名」を
望んだ根拠。 朝鮮人に望まれて彼らに改名を許したら、
彼らは喜んで日本名を名乗りたがった。 先の戦争では、
日本の兵隊になりたい韓国人が多かったのも事実の模様。

そもそも「韓国併合」は、日本が日露戦争に勝ち、
韓国を外交権のない保護国としたのが始まり。
日露戦争はロシアを相手に、満州・朝鮮の制覇を争った戦争。
韓国を併合してからは、日本は韓国に投資し、
その国を日本と同じ水準にまで上げようとした。
それこそ莫大なカネを使って、韓国のインフラを整備した。
ハングル文字を朝鮮全土に普及させたのは日本人。
当時、韓国政府の公文書には漢文が使用されていて、
ハングルは誰も使っていない状態だったとのこと。
また、一部の一握りの人間のみが漢文を使える程度
だったとの事。 日本人が韓国人の為の学校を作ったのは、
朝鮮にも日本の「かな文字」のようなものがあると
進言した者がいたからで、そこでハングルを全国的に
義務教育で用いることにした。  後に朝鮮史上
初めてハングルが全土に普及していった。

戦後、日韓基本条約を結ぶ時、外務省の試算では、
日本が韓国に残した資産が、韓国の賠償要求額を
上回っていた。 韓国人は「日帝36年の支配」と、
事ある事にお題目のように唱えるらしいが、
そういうなら、日本側も「日帝36年、寄付のし通し」と
言いたい。

韓国の長年の対日感情は、李承晩政権下の
「反日教育」のナセル業。  中国の反日感情は
江沢民による「反日教育」。 中国の経済発展は
中国における貧富の格差の拡大を意味する。
主として、内陸部の9億人もの農民の不満の捌け口
の為にその「反日教育」が利用されてきた。 
中国には驚いたことにinternetの検査官が
30万人もいると言うではないか。  国にとって
不都合な情報はすぐに削除され、国民の目に
触れないようにしているらしい。

中国は恐ろしい国で、歴史や政治について、
「平気で嘘をつく」。 しかも「政府が公然と嘘をつく国」。
かの国では、問題解決の為に話し合おうという姿勢は
全くなく、日本の主張を聞く耳など持たない。 
ただ、自分たちの主張を押し通すだけ。 
そんな変な未開の国だということを十分認識した上で、
付き合う必要がある。 彼らにこれ以上の付け入るスキを
与えてはならない。 日本の今までの「敗戦痴呆症」は
もうそろそろ治癒されるべきであろう。


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タグ:自虐史観

歴史、民族、宗教 [日本人論]

世界を知ろうと思えば、その歴史を学び、
多種多様な民族の違いを知り、
それぞれの営む宗教の類似点や相違点を知る必要がある。

また、世界を知り自国のそれと比較する事によって、
自国の事や自分自身の事が分かってくる。
比較なしには、その違いも類似点も把握できない。

普段の生活が、多種多様な異人種や異文化に囲まれて、
多少なりともその影響下にある場合は、
日々の日常生活を営みながら、
自他の違いを認識することができる。
人種の坩堝と言われるアメリカでの生活ならば、
多分その種の機会に事欠かないのかも知れない。
歴史という要素は別として、少なくとも、
異人種、異文化、異宗教の存在を直接目にし、
肌に感じることができるだろう。

所がそれとは反対に、日本の場合は、
一般的には、その日常生活の周りに、
異人種や異文化そのものが常時的に存在しない。
異民族と日常的に接触する訳ではないので、
彼らの話す言語にも疎いし、
彼らのものの見方や考え方などは、
全く理解する機会もない。
当然、彼らにとっての宗教が何を意味するのか、
どれだけの重みがあるのか、知る由もない。
実際に経験しないことは、なかなか分からない。

我々は、一般的な認識としては、
日本はほぼ単一民族国家だと思っている。
歴史を横に置いて、今現在という瞬間だけを輪切りすれば、
現実に存在する自分たちの周りやその国民を見る限り、
周りはみな例外なく同じ日本語を話す、
同じような顔形をした、日本人ばかりに思われる。
だから、この現代の時点にのみその焦点を当てると、
我々は皆日本人ばかりの同じ文化を持つ単一民族だと言っても、
それが間違いだとは言いきれない。
人種的には、古代日本語を話す沖縄の人々や、
北海道などに住むアイヌの人々を除けば、
其の他大勢は間違いなく単一民族だと言える。
しかし、日本の長い歴史を振り返って見ると、
時空を過去に戻してみると、
その歴史はもともとの原住民の他に、
大陸から日本に渡来してきた各種民族との混血で、
現在の日本人が形造られているようだ。
数の上では、その多くは、お隣の朝鮮半島や
中国大陸からの渡来人で占められているようだ。
日本の皇族も韓国にゆかりがあると言われている。
つまり、元々の日本人というものが、
長い歴史のなかで、存在しなくなって、
存在するのは、海外にそのルーツを持つ、
多種の民族との融和で新たにつくられた混血の日本人だ。
その出自をたどれば、モンゴルや南方系もおれば、
遠くは中央アジアや西アジアやヨーロッパ系の
人種さえもいるとの事。
古きより日本は種々雑多な寄合所帯で、
決して単一民族ではないようだ。
現在では、文化的にも使用言語の上でも、
お互いが融和しているので、
あたかも単一民族と錯覚するだけのことで、
現実はそうでもなさそう。

我々のルーツの話には興味は尽きない。
尽きない興味は本を読んで紐解こう。



今日の身近な出来事 [日本人論]

やはり日本人は、好ましき人々。 
人種として上等。 
「われ先に」ということがない。 
気持ちに余裕があるのか、
周りのひとに対するやさしさが態度に出る。 

きょうもお昼の弁当を買いに、
お昼時間に近所のスーパーへ行った。 
レジで並ぶ時、見知らぬおばさんが
その並ぶ順番を私に「どうぞお先に」と譲ってくれる。 

確かに、私の精算はその日のお弁当一つだけ。 
そのおばさんは、買い物籠に、
そこそこの数の商品が入っていて、
その精算に時間がかかるのだろう。 
多分そういう意味で、親切心で順番を譲ってくれた。 
なんとやさしい! 

でも、そのおばさんが例外でないと言えるのは、
以前にも同じ経験をしたことがあるから。 
その時のおばさんは、まったく別人だったから。

何でも「われ先に」が普通のどこかの国では、
多分想像もつかない、あり得ないことだろう。 
その国では、国土もべらぼうに広いけれど、
人口が多すぎるので、遠慮をするという文化のない国だ。 
(多分、その国では「遠慮」という言葉自体もないのだろう。)
だから、人に譲るなんてことは、逆立ちしてもあり得ない。 

彼等にとっては、人のことはどうでも良く、
自分さえ良ければいいみたい。 
だから、並んで順番を待つなんて、
考えもしないし、想像もつかないことなのだろう。 
現実に、みんなが並ぶ長い列を無視して、
列の一番前に何食わぬ顔して行った親子ずれを
目の前で見たことがある。 
その時は、見ていてあっけにとられたことが
とても印象に強く残っている。 

彼等の国籍を確かめたわけではない。 
確かめなくても間違いなく察しはつく。 
それは、香港の空港で、
フランクフルト行きに乗り換え時のことだった。 
多分、彼等は、世界中で嫌われている、何とか人に違いない。
最近はアフリカでもかなり嫌われているという話を大ぴらげに聞く。

その国の横柄さは、一般市民のみならず、
国の代表も金太郎あめのようだ。
先日、米国の代表者と広い太平洋を二国で分けようと
言い出したとか。 信じられない!





人種の区別は、なくならないもの [日本人論]

日本人は明治の開国以降、
国際社会の中で「人種差別撤廃」を主張し続け、
それを自分の単独の力で勝ち取った実績がある。 

歴史上、強い軍事力を持ち、白人国家相手の日露戦争で、
日本人国家を勝利に導き、それまでの白人社会で共通の、
非白人に対する共通概念と見られていたものを覆してしまった。 
まさに、二十世紀最大の、日本人の功績と言える。

日本の勝利は、それまで植民地に喘いでいた、
他のアジア諸国の人々に、意識の改革をもたらした。 

彼等、非白人社会の間に自信を植え付け、
希望を芽生えさせることに、大きな影響を与えた。 
また、先の大東亜戦争では、白人による植民地支配から、
多くの国を解放させた。 

白人絶対の時代を終焉させたのは、日本の力。

人種差別は、日本の対米戦争の大きな原因。 
1924年にアメリカで、日本人移民を締め出す
「排日移民法」が成立して、日本を憤慨させている。 
人種差別解消のための功績は大きな貢献をし、
その結果、戦後次々と、アジアの元植民地に
甘んじていた国々が独立した。 
日本人が模範を示し、表面的な人種差別はなくなったと言う。
でも、人種差別は水面下では完全になくなった訳ではない。

確かに、昔のように、目に余る形で、
制度上これ見よがしの人種差別は存在しなくなった。
トイレが別々だとか、電車やバスが別々だとかという
種類の差別は。 しかし、人の気持ちは、
法律で決まったからといっても、すぐさま、
気持ちも同時に変わるというものでもない。 

やはり、永年、心の中にあった思いが、
急にまったく違ったものになり難い。 
だから、人の心の内面では、やはり、
異質のものを異質と感じる感情まで、
法律で制御できるものでもない。

一般には、たまに出かける海外旅行で、
異人種に出くわすことはあっても、
彼等と日常的に付き合う機会がないものだから、
接触する場合があっても、慣れないものだから、
その差異を感じざるを得ない。 

差別する気持ちを無くしても、差異は感じるので、
奇妙な感じであることに違いはない。 

本当にお互いに友達関係になれて、
お互いに肌で違和感がなくならない限りは、
積極的に差別するつもりはなくても、
やはり違和感は払拭できない。 
現実と理想の概念が、必ず一致するとは限らない。



Advantages and Disadvantages of being Modest [日本人論]

As the virtue of Japanese, [modesty] is respected.
It is the thing we put importance among us Japanese,
which looks to be something opposite to the value
among Western people who would take it good
to stand out of a crowd.
Rather than to insist one's own opinion, we rather
put importance on the harmony of the whole people -
an inclination to stifle one's individuality among us
Japanese. It is sometimes commented just as
Japanese have no face - perhaps it will come
from this kind of our general traits.

It is said among Japanese that [those who
distinguish themselves are likely to arouse
opposition.] Such tacit social standard will be
working on us in our closed society.
That's why people in our community are mostly
not so positive in giving one's opinion even at
a meeting where they are expected to speak out.
It is quite rare to see during the meeting of
ordinary people being in a great uproar with
heated debate.

Each individual does not want to do
self-advertisement and tries to be more moderate
with a purpose to go along with the company
in a friendly way. That's why we are not
accustomed to making debates with clear
opinions or ideas to state logically what we
have in mind or to persuade others if necessary.
If some purpose must be achieved, secret
negotiations behind the scene will be conducted,
which we call in Japanese [「根回し」{nemawashi) -
a Japanese way for getting things done.

For example, historically, the parties we Japanese
are to speak are Japanese of same culture,
and we do not need too many words to make us
mutually understood. So, we refrain from being
too much on to others reciprocally and our
reservedness will work. We have no problem
in this way among us Japanese and it would be
best for us. Such modesty functions well just
like a lubricating oil for a machine.

However, we are getting in quite different age
these days. You have out there an evident border
between countries, and when you cross the border
physically, you need basically customs clearance.
But, the remarkable technological innovations in
the fields of information industry and aviation
industry had removed the border mentally and
had made much growth of human connections
and cultural exchanges.

The mass media now handle the important news
of all over the world, and nobody can live disregarding
the movement of the world - now we are in the world
closely connected each other - a grave news will
straightly influence on us to most major parts of
the world in an instant. The failure of Leahman
Brothers in September of 2008 had spread its
great bad influence to world economy all of a sudden.
What we could not imagine in the summer of the year
had happened actually in its fall. There we have
the fact that we can no longer live in the small world
of our own country alone, but need to live under
much larger social background named as "world".

If you use Skype, wherever you may be on the globe,
you can talk with whomever on the globe even at free
of charge. You can talk directly, for example, with
your friend who would be living at a place of 8 hours'
time difference on the other side of the globe
without any problem at no cost. Exchange of
message by email is what everybody is doing everyday.
If you want to do it, you can send out your message
to all the PC holders of the world, and you can have
them read at the time convenient to them. No barrier
is actually available just for the exchange of mind
or intentions. In such an age, the person you would
need to speak to will not be limited to Japanese only.
The world is really in abundance of diversity.
There looks to be so many variety in race, culture,
religion and sense of value.

Just to get along with these people of different
background, our original sense of value will not
make sense sometimes. Rather, it would be
unavoidable to get friction mutually because of
the ignorance of the difference of cultures.
As such, if the external company with foreign
people needs to be involved, in view of the
difference of social and cultural backgrounds,
we must admit each other such difference.

Unless we can respect others of different situation
reciprocally, things will not go so smoothly.
In order to heighten our mutual understanding,
we require the skill to have ourselves understood
as well as our situations. Just to make it possible,
our Japanese modesty will not work on them.
We need the skill most effective to have them
understood.

Rather than to do the way workable within our
society, we must have dynamic flexibility
to match to the situation of different world.
If you are connected with too many different
cases, we might need to make you fit so many
diversity, just like a multifaced monster of Edogawa
Rampo, but for the time being, it would be sufficient
to get the skill of style that will have lots in common
generally among the Western world, although they
look to vary very much each other actually.

Just to acquire the skill for mixing yourself in
different cultures, perhaps [pracrise makes perfect.]
You will not find a ready textbook to give you full
information on how to get it done perfectly.
Firstly we need to observe from an objective point
of view to see what is happening in different countries.
Then, we must respect them by entertaining them
with generosity. The ability to understand the
difference and to be tolerant to them is essential.

Furthermore, it is hoped to polish the ability to
express yourself so that your originality could be
well understood in an objective way. It is my
opinion that it will be good to get involved in a
voluntary and positive way so that you could
be welcomed in the different culture. It might
be helpful if you could engage in something that
could be hoped in the manner that will be
desirable to them so that you could make some
evolution. Modesty will never work. You will
need to cultivate the skill applicable to outer
worlds although your spirit will be kept uninfluenced.



日本人の反撃 [日本人論]

従来敗戦国であるが故に、日本人は中国や韓国からの、
事実に基ずくことのない、でっち上げで的外れの
いわれなき攻撃に、じっと耐えてきた。 
先の戦争に負け、心はズタズタに打ち砕かれ、
GHQに再起不能なまでに完全に洗脳され、
病的なトラウマ状態に全国民が国全体として陥っていたところを、
その傷口に塩でも上塗りするかの如く、
それらの悪意に満ちた国々から攻撃され続けてきたのだ。

おろかなことだが、日本の中にも、
歴史事実の誤った認識から、
それらの国から言われるのは「ごもっとも」と誤解し、
不必要な根拠のない国としての謝罪を、
其の場しのぎでやってきた御仁もいる。
それらの御仁を別名「国賊」とも言う。 
そんなばかな連中が、一時期とは言え、
日本を代表していた時期があったのは、
日本国人にとっては、いわれなき
理不尽に満ちた不幸な時期でもあった。

その後、安倍政権になって始めて、
そうした過去のいわれなき不都合の
清算をやろうという風潮が出てきたのは、
安倍氏のリーダーシップもさることながら、
日本人が誇りある民族として再スタートしようと願い、
それを行動に移そうとする気持ちがあるから。 
そんな空気の漂いが感じられる。 
心ある多くの日本人が、現政権の国の方針を支持し、
現実に閣僚なども多数こぞって靖国神社に参拝した。 
国家のためにそのかけがえのない命をささげた英霊に合掌し
尊崇の念を表すのは、当たり前のことで、
どこの国でも例外なくやっていること。 
その行為にまで口出しする、
その非常識極まりない無神経は断固排除すべきもの。 
戦後68年の長い歳月を経て、
やっと日本とその国民が、
本来の自分らしさを取り戻そうとしている。

「戦争に負けた」という強烈に打ちのめされた背景の下、
まことに不本意ながら、
理不尽を理不尽として跳ね返すことが出来なかった
それまでの悔やまれる歴史。 
その不当な状態を、ここに来て
やっと訂正できる雰囲気が醸成され、
国民の考えの一致するところとなったことは、
当然と言えば当然だが、歓迎すべき進歩。 
でも何でも「みんなでやる」日本式のグループ行動は、
日本の文化なのかも知れないけれど、
ちょっと首をかしげる。 



日本人の脆弱性 [日本人論]

日本人は自分のことに関して、大いに興味を持つ割合には、
あまり自分の事が分かっていないようだ。
いや、自分の事が分かっていると錯覚しているのが、
相当だろう。
確かに、自分の属する社会の中で一般に通用する概念の下では、
自分のことは間違いなく的確に理解しているのだろう。
だけど、多くの日本人が不得意とする分野、
世界の多種多様な文化や社会の実態の把握、
それがままならないように、
自分の社会の「外」から見た、
自分の属する世界とは別の世界の異なる価値観で見た場合、
日本及び日本人がどういうものか、
それについて多分あまり認識できていないのだろう。
そこに日本人の脆弱性の一つがある。

自分の価値観は、広い世界の中では、
それは絶対的なものではなく、
単に、一つの例にしか過ぎない。
価値観はそれこそそれぞれ。
例えば、モノガミーが常識の日本では、
イスラム教国のポリガミーのことは分からないだろう。
多神教国の日本では、神仏扱いに整合性などはない。
結婚式は神前や人前で、葬式は仏前など、
その時の事情に応じて都合よく取り替える。
神前と言っても、日本古来の八百万の神々もあれば、
キリストもある。 何でもありだ。
イスラムの国では信仰の対象になる偶像などは一切ない。
皆同じ時間に同じ方向に向かって日々複数回の礼拝をする。
富める者が貧しい者に施す喜捨は当たり前のこと。
全く我々のそれとは異質の文化や歴史があり、
それが世界の多くの国々の、
多様な人々の生活に影響を与えている。

日本という国は、1853年(嘉永六年)ペリーが日本に
開国をせまるまで2世紀以上に渡って、
鎖国をしていたとのこと。
世界から長きに渡って孤立していたことのある希な国だ。
その間、人々は他の広い世界から完全に断絶され、
狭い世界の中で独自の文化を育んできた。
その純粋培養の果実には、世界に誇れる文化もある一方で、
その純粋培養環境が故に、対外的には不得手な分野も
同時に形成される結果となった。
戦後67年以上も経過しているのに、
依然国としては外交が不得意だし、
一般国民の個人レベルでも、洋才に長けた人は多くない。
個人レベルでは、実際に他国の人々の間でもまれるという
試練の機会がなかったために、どう外国人と渡り合えばいいのか、
その辺の社交術がかなり未熟だ。
現実に、外国人に話しかけられても、同胞相手と同じように
対応できる人は多数派ではない。
自分の属する社会の価値観や行動規範以外に、
自分の知らない別世界にあるそれらの現実を知らないが故に、
滑らかな人間関係の構築が得意ではない。
勿論、その背景には言語能力も大いに関係しているところだか。

他国を見渡せば、一般的には、一つの社会が複数の人種で
構成されている場合が多い。 一人種、一言語、一習慣という例は
むしろ珍しい。 他国では、同じ社会の中に異なる人種と同居し
ひとつの社会を構成している場合が多い。
その最たる国がアメリカだろう。
また、地続きのヨーロッパでは、その地理的事情もあって、
他人種の往来も多く、日常的に目の前に異人種がいるのが
当たり前で珍しくもない。
それに反して、日本の場合は、概して他国の人々と
日常的に交わることが殆どないから、
その分野のスキルを上達させる機会が殆どない。
海外に出かけても、多くは同胞との短期間の団体行動のみで、
その国の表面だけを眺めることに終始し、
自分の殻を破ることは珍しいので、実質的に新たな世界の
見分が広まらない。 他国の事情を良く知らないから、
他国を含めた行事などの旗振りもままならない。
だから、常に、他国の間にあっては、
先頭を走ることが得意でない。
日本人の謙虚さがどうしても出てしまう。

現代の歴史を振り返れば、日本は世界の各地に、
多大な金銭上の援助をしてきたその代表国だ。
でも、金だけ出しておけば、それでいいというものでもない。
日本は金を出すが、口を出すのが得意ではない。
それは政治の分野のみに留まらない。
文化的な面でも、日本は対外的に自己宣伝をするのが
特異でないというか、その種のことにはあまりエネルギーを
注いで来なかった。
例えば、フランスの場合は、他国でのフランス語普及に
政府が力を入れている。 それは今に始まったことではない。

然るに、日本政府が海外で日本語普及に尽力しているという
話は聞こえて来ない。 自分のことを理解してもらう努力に
欠けていた。 相手を知る努力も足りないし、
相手に知ってもらう努力もおぼつかない。

アメリカは真珠湾攻撃を受ける前から
「敵を知り己を知れば百戦危うからず」を実践していたのに、
日本には、その反対に「敵国の英語を学ぶのは非国民だ」と言って
禁止していた愚かな指導者が歴史上にいたらしい。
なんと、見識のない、浅はかな度量の小さいことか。
多分、それは島国根性などと揶揄されることに起因するのだろう。
まずは、何はともあれ、広い世界の歴史や現実や事実関係を
良く知り、それらの知識や有効な情報を駆使して、
国家の利益を図り、国民に利益を生み出すことが望まれる。
国民も個人レベルでその種の情報工学では、努力したいもの。
個人には個人で出来る事がある。
自らの力を世界の平和や繁栄や親睦のために活用できるよう、
世界で孤立することなく、世界の中心的役割を担えるように、
世界の国々から敬意を持って見られるように、我々の
脆弱な部分の補強に努めたい。 我々日本人はやればできるし、
その役割は期待されている。 個人レベルでは、まずは
世界に友達をつくり、交流を通じて友情を維持する辺りから
始めよう。 新しい友を通じて、それまでは全く知る由もなかった
新しいことの発見の恩恵にあずかれる機会は大いに増すだろう。
今すぐに出来ることから始めよう。

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謙虚さを尊ぶ日本人 [日本人論]

国家単位、民族単位で、日本民族を
他国の多様な民族と単純に比較した場合、
我々の一般的特徴として、真っ先に思い当たるのは、
日本人は「謙虚」であるという事だろう。

自己主張をする西洋人や他のアジア人との比較において、
日本人はとても「奥ゆかしい」。
自分のことを自分でほめることは、
恥ずべきことだと思っている。だから、
普通の日本人は「我が、我が」と
自己主張することを、極力避ける傾向がある。
どちらかと言うと、日本人全体が、
ひとつの均質的な集合体みたいなもので、
その歴史的島国根性を背景に、
お互いにお互いが同質であることに安住感を持ち、
異質なものは、極力排除しようとする。

だから、群衆の中で、一人だけ目立つことが許されず、
仲間と同じ色の羽を持つ存在であることを面前に
打ち出すためには、自分や自分に属するものが、
他の人と同類もしくは類似でなければならず、
自分を抑えて「謙虚」であることで、
仲間社会に受け入れられる。

元来、日本人の間には人類としての異質や多様性はないので、
異質なものを鷹揚に受け入れるという寛大さはない。
毛色が同じであってもなくても、日本人以外の
異国人との付き合いや接触が殆ど皆無だったため、
異国の人との交流の為の知恵や才覚も発達しなかった。
仲間からの突き上げを避ける為に、ただただ自分が
群衆の中で目立たないようにすることに腐心し、
「謙虚であること」で保身してきた。

自分に誇れることがあっても、自分の家族や親類縁者に
誇れる者がいても、決して自分の口からは、
自慢げに話すことはない。
それに反して、西洋人は誰それのことを誇りに思うとか、
自慢に思うとか、そういうことをよく口にするが、
日本人は西洋人のそれとは正反対のように思うし、
中国人の間に見られるような、強烈な自己主張をする
という事もない。
むしろ、自己主張をしないが故に受け入れられるのが日本社会。
多分、中国社会では、自己主張をしなければ,
生きていけないのではないかと思われる。
短期の滞在中に、それを裏付ける実例を目の当たりにした。
彼らの間では、しょっちゅうトラブルがあり、
その解決の為には、人前で大声を出して怒鳴りあうことも
珍しいことではなさそうだ。 警官同志でも、
なんと白昼公然と制服を着たままでそれをやる位だから。
それだけ、日本社会の中が、その閉鎖性のそしりを免れないが、
上品に成熟しているように思われる。

そういう事も、他と比較して、やっと気付く。





ものを言えない日本 [日本人論]

日本の外交力のなさは、何が原因なのかと考えると、
それは、日本が実質的に「独立国家でない」から
なのではなかろうか。
 
名目上は、日本は1951年9月に調印された
サンフランシスコ講和条約締結以降、
一応は主権国家ではあるが、
その実質は依然アメリカに依存する立場にある。 
少なくとも、軍事面では、自国の安全を自前で確保できない、
自立できていない国に相違ない。 

日本の安全は、アメリカとの安全保障条約の下、
アメリカの軍事力で守られている。 
そのように、他国に依存する半人前だから、
他国に政治的影響力を与え得る状況にはない。

日本が国際社会のなかで、
それ相当の地位を得ようとすれば、
当然、まずは自前で自国を守れる国になる必要がある。 
親の庇護のもとにいる子供のようでは、
誰からも一人前扱いはしてもらえない。 

先の大戦後GHQから与えられた平和憲法を
後生大事にしているようでは、何の成長も進化も期待できない。 
それは、戦後の日本を、完全に無能化するためにつくられた,
日本がアメリカに対し、将来起こしうる脅威を抑え込むため、
占領軍が自分の都合のよいように作ったもの。 
現在の日本の事情に合うものだとは到底言い難い。

日本が恒久平和を願うことは、
国民のだれもが支持することだろう。 

だれも意味のない戦争はしたくない。 
だけど、現実に世界は紛争に満ち溢れている。 
人間の歴史はいわば「戦いの歴史」。 
平和な時代があれば、それはたまたま紛争と紛争の間の
一時的なひと時に過ぎない。 

自国は争いをするつもりがなくても、他国が紛争の脅威になる。 
つまり、平和な状態を保つためには、
他国から侵略されないレベルの軍事力による、
力の均衡が必要。 

だから、自国の平和維持のためには、
実際に行使できるそれ相応の軍事力を持つことが不可欠。 
アメリカに対し、対等にものを言える状況を
自助努力で作らなければならない。 

当然、そこには世界の共通の脅威に対しては、
協同できる状態も必要。 
世界でものがいえるということの為には、
国際社会の中で一人前と評価される存在でなければならない。 

存在感を示せなければ、誰も耳を傾けてはくれない。 
はっきりものを言える地位を確立し、
はっきりものを言うようになれば、
アメリカを含め国際社会は日本の存在を認めるようになる。

今の戦争放棄の(勘違いの)平和憲法下では、
自衛のための武力装備があっても、
それを対抗のために使えないという、なんともおかしなお話。 

武器を持っていても、現実に使えないとなれば、
武器を持たない状態と同じことで、
何ら他国からの武力行使に対する抑止力にはならない。 
まったく意味がない。

中国が近年毎年二ケタ台の軍事力整備拡大路線を
実行してきている。 軍事力を背景にしなければ、
対外的に世界にものが言えないという事をよく認識しているから、
それを可能にする目覚ましい経済発展の下、
軍事力拡大を図っている。 太平洋における軍事守備範囲を、
例えばハワイあたりで線引きして、アメリカと二分しようと、
アメリカに提案した中国軍幹部もいたとか。

力が伴ってくると国力に自信がつき、
そのような膨張する発想も出てくるのだろう。 

世界は、日本のようにお人よしではない。 
決してお人よしではない。 
日本のこれまでの政治家あたりには、
無知な人が少なくなかったようだから、国民はたまらない。 

他国の場合は、それこそ機会があれば、
その機会を自国の膨張のためにしようとしてきた国は少なくない。 
例えば、北方領土の四島は1945年にソ連によって不法占拠されたもの。 
終戦直後のどさくさ時に、ソ連は日本に侵略してきた。 
中国のチベットに対する同化政策の動きも、
東シナ海のガス田問題や尖閣諸島に対する一方的な侵略の試み、
南シナ海での領土問題など、
それらすべては具体的な膨張政策の実例である。

中国もロシアも、アメリカやその他の国々でも、
自国の膨張の機会を実際に狙ってきた。 
歴史がそれらの事実を語っている。 
ぼやっとしていて、戦略のないお人よしの日本は、
益々食い込まれる隙を与える可能性がある。 
それが現実なのだ。 

世界の事情に目覚めて、自国の立て直しを図り、
真の独立を図りたいものだ. 
必要とあらば、他国から孤立することを恐れず、
独自の自立した道を突き進んで行きたい。

米中両国は、日本が核武装することに抵抗するかも知れないが、
自国の安全を自前で図ろうとすれば、それは必然の道かもしれない。 
米軍は、理屈をつけて、日本から出て行こうとはしないだろうが、
日本が自力で自国の安全を図るとなれば、
沖縄の米軍基地問題は解消できる可能性が現実のものになり得る。

戦後アメリカによって刷り込まれた日本人の去勢された頭の中を
一度再起動したいものだ。 他国と意味なく協調するだけが能ではない。 
日本独自の「和」の文化は、対外的には往々にして国益に反する帰結を
もたらしかねない。 他国は基本的には、自国の利益拡大しか眼中にない。 

自国の利益を犠牲にしてまで、他国に協力する姿勢を見せることはない。 
協力を得られる場合は、その協力が当該国の国益にかなう場合のみ。 
それが現実だから、日本も、せめて無条件に他国と歩調を合わすことの
ないようにしてもらいたい。 まずは自分の頭の中で、
自国の国益のことをよく考えて欲しいと思う。 
日本のお人よしや世間知らずは、外国には通じない。



顔のない日本人 [日本人論]

従来敗戦国であるが故に、
日本人は中国や韓国からの、事実に基ずくことのない、
でっち上げで的外れのいわれなき攻撃に、じっと耐えてきた。 

先の戦争に負け、心はズタズタに打ち砕かれ、
GHQに再起不能なまでに完全に洗脳され、
病的なトラウマ状態に全国民が国全体として陥っていたところを、
その傷口に塩でも上塗りするかの如く、
それらの悪意に満ちた国々から攻撃され続けてきたのだ。

おろかなことだが、日本の中にも、
歴史事実の誤った認識から、
それらの国から言われるのは「ごもっとも」と誤解し、
不必要な根拠のない国としての謝罪を、
其の場しのぎでやってきた御仁もいる。
それらの御仁を別名「国賊」とも言う。 

そんなばかな連中が、一時期とは言え、
日本を代表していた時期があったのは、
日本国人にとっては、
いわれなき理不尽に満ちた不幸な時期でもあった。

その後、安倍政権になって始めて、
そうした過去のいわれなき不都合の清算をやろうという
風潮が出てきたのは、
安倍氏のリーダーシップもさることながら、
日本人が誇りある民族として再スタートしようと願い、
それを行動に移そうとする気持ちがあるから。 
そんな空気の漂いが感じられる。 

心ある多くの日本人が、現政権の国の方針を支持し、
現実に閣僚なども多数こぞって靖国神社に参拝した。 
国家のためにそのかけがえのない命をささげた英霊に合掌し
尊崇の念を表すのは、当たり前のことで、
どこの国でも例外なくやっていること。 
その行為に口出しする、
その非常識極まりない無神経は断固排除すべきもの。 

戦後68年の長い歳月を経て、やっと日本とその国民が、
本来の自分らしさを取り戻そうとしている。

「戦争に負けた」という強烈に打ちのめされた背景の下、
まことに不本意ながら、
理不尽を理不尽として跳ね返すことが出来なかった
それまでの悔やまれる歴史。 

その不当な状態を、
ここに来てやっと訂正できる雰囲気が醸成され、
国民の考えの一致するところとなったことは、
当然と言えば当然だが、歓迎すべき進歩。 

でも何でも「みんなでやる」日本式のグループ行動は、
日本の文化なのかも知れないけれど、ちょっと首をかしげる。
日本の「顔」となるヒーローが、運動競技の分野等に留まらず、
政界にも、学会にも、多数輩出する事を強く望む。



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