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日本人の感覚の特異性はどこから来るのか? [日本人論]

日本人の感覚の特異性はどこから来るのか?

日本人は「安全はタダ」だと誤解している節がある。 
歴史的に、常に身の危険を感じて生きることを
余儀なくされて来たユダヤ人の例とは、その対極にある。 
環境は人を作ると言うから、その大きな差異の原因は、
その環境の差異に起因するものであろう。

まず誰もが最初に気付くのは、その地理的環境の差異。 
日本は、周りがすべて海で囲まれている。 
つまり、それは天然の要塞のごときもの。 
陸続きのヨーロッパで見られる
外敵の攻撃からその身を守るための「要塞」のようなものがない。 
例外的にあるのは戦国時代の大名のお城のみで、
その地方に住む人々の街全体を保護するための
要塞などは見当たらない。 日本のお城は、
お殿様とその一部の関係者の為のもので、
その地の一般の民衆を守る為のものではない。 
日本国内の内戦に対応するためのもので、
いわゆる異民族のごとき外敵から身を守るものではない。 
第一、異民族などは周囲には全然いない。 
他方、ヨーロッパでは、英国を除き、地形的に陸続きで、
異民族との戦いは日常的なものだった(のかどうかは知らないけれど)、
昔の街は大抵皆、城壁で守られる形になっていたのだろう。 
つまり、その地域に住む人々全体の安全の確保のために
城壁というコストが掛っている。

「外敵からの攻撃を心配する必要」のあるなしが、
明らかに異なる。 日本人はヨーロッパの例に見るような、
外敵から身を守るという事の必要性を、
ほとんど感じることなく、今日に至るのだろう。 
そういう事情は、国民レベルでも、国家レベルでも、
国や国民を守る主体としての国家意識が結果的に希薄。 
戦前に見られたであろう国家意識は、
敗戦後失望のあまりかなり薄いものになったのだろうと思う。 
アメリカ人は国家に忠誠を誓いアメリカ人となると言われる。 
戦前には天皇陛下万歳はあったけれど、
戦後の我々には国家に対する忠誠意識など聞いたこともない。 
それは、日本で暮らす限りでは、
自分が日本人であることの自覚をあえてしなくても、
普通に問題なく生活できるから。 だから日の丸の国旗が
国の祭日に掲揚されている光景も目にすることもない。

二つ目に言えるのは、多少の例外はあるけれど、
アメリカやヨーロッパの例と比較すると
明らかに日本は単一民族で構成され、
単一言語を共通語として使う単一文化国家であろう。 
戦後の経済発展のお蔭で、
人々の生活はそれなりに恵まれていて、
他国と比較すると、極悪犯罪の発生が極端に少ない。 
まさに平和そのもの。 だから夜間に女性が一人で外出しても
身の危険を感じることは少ない。 
世界の一般的平均からは、かなりかけ離れているみたいだ。 
複数の民族が同国内に同居し、
使用される言語が複数ありそれぞれに違えば、
それだけでもお互いの意思疎通に問題が発生し得る。 
さらに民の間の生活レベルに大きな差があると、
犯罪の発生は当然高くなる。 日本では、そうした日本特有の
社会的条件も犯罪を少なくすることの為に大いに寄与している。 
日本国内で起きる犯罪の多くは、その殆どが
他のアジア系の非日本人によるものだという話も、
統計上存在すると聞く。

日本は地理的にも人的にも、前記のような特殊事情がある。 
そういう状況で、日本人社会の中では、
子供の時代の受験戦争というものが、
人生のその一時期にはあるというものの、
それ以外では、概して強烈な自己主張を要求される環境ではない。 
むしろ、聖徳太子の時代から
「和をもって尊しとする」精神が自然と身についていて、
自己主張をすること自体がむしろ疎まれる。 
そうした、日本社会での適応条件が常に作用し、
対外的な外交に不慣れな日本人は、
国内では対外的に積極的に自己主張をしようとはしない。 
自己主張に欠ける日本人であり日本国だから、
他国とも宣伝競争には勝てない。 
日本社会の中では英雄の輩出が好まれない社会。 
むしろ、みんなが同質であることが望まれる社会。 
例えば、幼稚園での学芸会などでは、
驚いたことに「出演者のみんなが主役」というような
「とても異様な奇異な事」も平気で行われる。 
我々の子供の頃は、お姫様は一人だったけど、
その頃の社会の方が自然で違和感がなかった事が思い起こされる。

単一民族の金太郎あめのような同質性は、
あまり多くの言葉を駆使しなくても、
お互いに少ない言葉数で理解しあえるといういい所もある。 
しかしそれは、侃侃諤諤と討論するという習慣を生まない。 
お互いに背景が違う者同士ならば、相互理解を図るためには、
言葉を駆使して考えや意見を伝える必要に駆られ、
討論するというのもまれではなくなるが、
日本人同士の間では、そんな習慣もなければ、
そうすることが疎ましく思われる。

そうした特質を身に着け、日本人固有の感覚や視点で、
ものを考えると、異国の異なる文化の人々とは、
上手く付き合いずらいものがある。 
和の魂はいいのだけど、洋才に不慣れだと、
意思疎通も上手くいかない。 
日本国民総体が塊となって、異文化とも馴染み、
複眼をもって多様性に対応できるように、
その順応性に磨きをかけてレベルをかさ上げできれば、
日本人の活躍の舞台は格段に広がる、
と思うのは私だけだろうか? 
日本人はもっと自信を持って、
対外的にも積極的になればいいと思う。 
もはや、意思疎通の分野でも、地理的移動の分野でも、
障壁となるものは殆どなくなっている。 
日本人の意識上の壁のみがもっと低くなればいいなと思う。






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