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傍観者が主流の日本人 [日本人論]

良きにつけ悪しきにつけ、一般の日本人は、
何か事が起これば、その事の推移を見守り、
その事柄に注目する事はあっても、
その事柄に直接関与しようとしない、と言うか、
傍観者の立場から出ようとしない人が多い様な気がする。

その傾向に好対照的なのが、一般の韓国人だと思う。 
その節newsにもなったが、大統領弾劾を目指す彼ら一般大衆が
多人数でデモを行った様な、そんな熱狂的な実行力は日本人には乏しい。

あくまでも自分は傍観者で、
自分から積極的に行動に移すという事はまずない。 
自分個人に直接多大な悪影響でも与えない限り、
「何事も他人事」なのである。

ましてや問題が「政治」や「外交」などの国レベルの問題となれば、
評論家やメディア等の関係者以外が直接ものを言う事など見た事がない。 
マスコミの番組の中で「一般の意見募集」に対して、
短いコメントを送る程度位の例しか知らない。

物事の「本質」を理解した上で、
「自分で考える」という事が習慣化されているのかどうか、とても疑わしい。 
普段から関心を持ち勉強をしていないと、
自分の手持ちの「判断材料」に事欠くだろう事は容易に想像がつく。 

自分独自の意見を持たない人々は、
その判断基準が乏しいが故に、
マスコミ等の報道や意見に影響される事があるのだろう。 

マスコミの報道などは、「参考に」聞くことはあっても、
果たして「ホントの所はどうなのか」
よく吟味もせずに盲信してしまうと、おかしな事にもなり兼ねない。 

そうした悪影響の典型的な例が、
例の朝日新聞による間違った「慰安婦捏造報道」だろう。 

誰が見ても、あれは国を貶める「国賊」ものだ。 
マスコミの報道を信用する事による、迷惑な弊害は自分にも跳ね返って来る。

政治のレベルでも、罪造りな事例が少なくない。 
上記の「慰安婦問題」がらみでは、
当時の官房長官の「河野談話」も我が国の国民を愚ろうした、
無責任による弊害そのものだろう。 

事実の裏を取る作業もする事なく、安易に政治判断で、
「なかった事を、あたかもあったかの如く捏造」してしまった罪は大きい。 

然るに、ご本人は御咎めもなく、謝罪もせずじ~っと黙り込んだまま。 
そんな行為を追求しようとしない日本国民がいる。

昨今はIT革命によって世の中が全く変わってしまった。 
通信手段が夢の様に発達したお蔭で、
時間的及び物理的制限を飛び越えて、
いつでも誰とでも自由にいくらでも意思疎通が出来る時代。 

家族や友人や知人などの範囲にとどまらず、
世界中の誰とでも、同時的に双方向にやり取りの出来る時代。 

SNSが流行り、自分の意見をほぼ世界中に拡散する事も可能な時代。 

そうした通信手段や拡散手段を利用すれば、
不特定多数の人々にも自分の訴えをアピールできる時代だから、
そうした道具は、有効に使いたいものだと思う。













日本人よ「Proactive」であれ。 [日本人論]

日本人よ「Proactive」であれ。

「Proactive」という言葉はStephen Richard Covey博士の言葉。
彼の著書「The 7 Habits of Highly Effective People」の中の
「The 7 Habits」の一番目に「Be Proactive」と出てくる。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_7_Habits_of_Highly_Effective_People

日本語に翻訳すると何が最適なのかちょっと簡単に言いずらい感じがするが、
その反意語としては「Reactive」つまり「受動的」だから、
「率先して何かをやりなさい」というような意味だと思う。

日本人には、その「受動的」人間が多い傾向があると言われる。
何か行動を仕掛けられると、それに反応するタイプの事を言う。
つまり、誰かから仕掛けられない限り、
自分から他の人に対して仕掛けようとはしない。

その反対の「Proactive」な人間は、いても少ない、
「多数派」ではないと言って過言ではないだろう。

特に日本人にはその傾向が強い感じがする。

自分が中心となって、周囲に影響を与える「何かを起こす」。
そういう事を意識して行い、周りによい影響を及ぼしたいものだ。
結局、自分が主になり「make something happen」という事だと思う。














日本人の感覚の特異性は何処からくるのか? [日本人論]

日本人の感覚の特異性はどこから来るのか?

日本人は「安全はタダ」だと誤解している節がある。 
歴史的に、常に身の危険を感じて生きることを
余儀なくされて来たユダヤ人の例とは、対極にある。 

環境は人を作ると言うから、その大きな差異の原因は、
その環境の差異に起因するものであろう。

まず誰もが最初に気付くのは、その地理的環境の差異。 

日本は、周りがすべて海で囲まれている。 
つまり、それは天然の要塞のごときもの。 
陸続きのヨーロッパで見られる
外敵の攻撃からその身を守るための「要塞」のようなものがない。 

例外的にあるのは戦国時代の大名のお城のみで、
その地方に住む人々の街全体を保護するための要塞などは見当たらない。 

日本のお城は、お殿様とその一部の関係者の為のもので、
その地の一般の民衆を守る為のものではない。 
日本国内の内戦に対応するためのものであっても、
いわゆる異民族のごとき外敵から身を守るものではない。 

第一、異民族などは周囲には全然いない。 

他方、ヨーロッパでは、英国を除き、地形的に陸続きで、
異民族との戦いは日常的なものだった(のかどうかは知らないけれど)、
昔の街のその多くは、城壁で守られる形になっていたのだろう。 

つまり、その地域に住む人々全体の安全の確保のために
城壁というコストが掛っている。

「外敵からの攻撃を心配する必要」のあるなしが、明らかに異なる。 

日本人はヨーロッパの例に見るような、
外敵から身を守るという事の必要性を、
ほとんど感じることなく、今日に至るのだろう。 

そういう事情は、国民レベルでも、国家レベルでも、
国や国民を守る主体としての国家意識が結果的に希薄。 

戦前の一時期に見られたであろう国家意識は、
敗戦後失望のあまり、かなり薄いものになったのだろうと思う。 

アメリカ人は国家に忠誠を誓いアメリカ人となると言われる。 
戦前には天皇陛下万歳はあったけれど、
戦後の我々には国家に対する忠誠意識など聞いたこともない。 

それは、日本で暮らす限りでは、
自分が日本人であることの自覚をあえてしなくても、
普通に問題なく生活できるから。 

だから日の丸の国旗が国の祭日に掲揚されている光景も目にすることもない。

二つ目に言えるのは、多少の例外はあるけれど、
アメリカやヨーロッパの例と比較すると
明らかに日本は単一民族で構成され、
単一言語を共通語として使う単一文化国家であろう。 

戦後の経済発展のお蔭で、
人々の生活はそれなりに恵まれていて、
他国と比較すると、極悪犯罪の発生が極端に少ない。 

まさに平和そのもの。 

だから夜間に女性が一人で外出しても
身の危険を感じることは少ない。 

世界の一般的平均からは、かなりかけ離れているみたいだ。 

複数の民族が同国内に同居し、
使用される言語が複数ありそれぞれに違えば、
それだけでもお互いの意思疎通に問題が発生し得る。 

さらに民の間の生活レベルに大きな差があると、
犯罪の発生は当然高くなる。 

日本では、そうした日本特有の社会的条件も
犯罪を少なくすることの為に大いに寄与している。 

日本国内で起きる犯罪の多くは、
その殆どが他のアジア系の非日本人によるものだという話も、
統計上存在すると聞く。

日本は地理的にも人的にも、前記のような特殊事情がある。 

そういう状況で、日本人社会の中では、
子供の時代の受験戦争というものが、
人生のその一時期にはあるというものの、
それ以外では、概して強烈な自己主張を要求される環境ではない。 

むしろ、聖徳太子の時代から
「和をもって尊しとする」精神が自然と身についていて、
自己主張をすること自体がむしろ疎まれる。 

そうした、日本社会での適応条件が常に作用し、
対外的な外交に不慣れな日本人は、
国内では対外的に積極的に自己主張をしようとはしない。 

自己主張に欠ける日本人であり日本国だから、
他国とも宣伝競争には勝てない。 

日本社会の中では英雄の輩出が好まれない社会。 
むしろ、みんなが同質であることが望まれる社会。 

例えば、幼稚園での学芸会などでは、
「出演者のみんなが主役」というような
「とても異様な奇異な事」も平気で行われる。 

我々の子供の頃は、お姫様は一人だったけど、
その頃の社会の方が自然で違和感がなかった事が思い起こされる。

単一民族の金太郎あめのような同質性は、
あまり多くの言葉を駆使しなくても、
お互いに少ない言葉数で理解しあえるといういい所もある。 

しかしそれは、侃侃諤諤と討論するという習慣を生まない。 

お互いに背景が違う者同士ならば、相互理解を図るためには、
言葉を駆使して考えや意見を伝える必要に駆られ、
討論するというのもまれではなくなるが、
日本人同士の間では、そんな習慣もなければ、
そうすることが疎ましく思われる。

そうした特質を身に着け、
日本人固有の感覚や視点で、ものを考えると、
異国の異なる文化の人々とは、上手く付き合いずらいものがある。 

和の魂はいいのだけど、
洋才に不慣れだと、意思疎通も上手くいかない。 

日本国民総体が塊となって、異文化とも馴染み、
複眼をもって多様性に対応できるように、
その順応性に磨きをかけてレベルをかさ上げできれば、
日本人の活躍の舞台は格段に広がる、
と思うのは私だけだろうか? 

日本人はもっと自信を持って、
対外的にも積極的になればいいと思う。 

もはや、意思疎通の分野でも、
地理的移動の分野でも、
障壁となるものは殆どなくなっている。 

日本人の意識上の壁のみがもっと低くなればいいなと思う。













自分という人間の価値 [日本人論]

客観的に見て、「自分の価値」はどこにあるのだろうか、
とふと考えると、。。。。。? 思考停止になる自分がいる。

自分では、自己満足ながら、自分を多少は評価している自分がいる。

でも、具体的にその根拠や理由を説明せよと言われると、
イメージは脳裏を浮遊するが、
明確な言葉で具体的に表現できない自分がいる。

つまり、自分勝手な自己評価というものはそんな低いレベルのもので
「妄想」の域を出ないものかも知れない。

社会的な人間としては、自分が他人にどのように評価されているのか、
その辺が大事なことで、社会における「存在価値」や「存在理由」がないと、
そもそも評価の対象にもなれない。

社会の中で、人の為に何ができるか、どんな貢献が可能か、
その点を客観的に見てみると、何の役にも立てない自分がいるのを見る。

価値のあることで、「存在理由」を対外的に主張出来て、
そしてそれが対外的に認められて、始めて意味があること。
自分の一人よがりは、全く意味をなさない。

社会に貢献できなくても、人間であることの尊厳は人から侵されない。
しかし、できれば、いつの日か社会の役に立てる人間を目指したいと思う。

そうした自由は奪われない。













「他人を思いやる心」を持つ日本人には「したたかさ」が足りない。 [日本人論]

日本人には「他人を思いやる心」を持つ人は多い。 
自分の心に余裕があるとそうした気持ちになれるものだ。 

それはそれで日本人の美徳として麗しいことだが、
それなりに広くマナーの流布した世界に住んでいるが故に、
人を疑う事も多くなく、それでも大した問題もなくやれてきているのは、
それは日本人だけの世界で安住しているからに過ぎない。 

我々日本人の間では「人をだます」という前提がない。 
だから、人をうかつにもたやすく信じてしまう。

その点、中国人は「他人を信じることはない」と言われる。 
自分の国も信用できなければ、
自分以外の他人を信じられない世界に住んでいると言われる。

信じられるのは自分のみか自分の家族の範囲まで。 
だからお互いに人を信じる事はない模様。 

人にだまされるのは騙された方が悪いのであって、
だました方が激しく言われることがないのかも。 

そうした騙しが常に存在する世界に無関係な日本人は、
物事の判断をするときに、人は騙さないものという前提でものを考える。 
俗に言われる性善説がその根底にある。 
発想の前提が性悪説を基本とする世界の人々とは全く異なる。 
それを、「お人よし」と呼び、日本人の多くはお人よしなのだろう。

だから、日本の普通の発想で物事を考え判断するから、
日本人はその外交の分野で他国に騙される。 

よせばいいのに、約束の履行を待たずに、
約束と同時に、お金を出すなどというのはその悪い例だ。 













驚愕の日本人の秩序正しさ [日本人論]

http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%82%8f%e3%82%81%e3%81%8b%e3%81%9a%e8%a8%80%e3%81%84%e4%ba%89%e3%81%84%e3%82%82%e3%81%97%e3%81%aa%e3%81%84%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%ba%ba%e3%80%81%e7%81%bd%e5%ae%b3%e4%b8%8b%e3%81%a7%e3%82%82%e7%a7%a9%e5%ba%8f%e3%81%a8%e7%b5%b6%e8%b3%9b%ef%bc%9d%e4%b8%ad%e5%9b%bd/ar-BBs37XD?ocid=oa-cinqueter014#page=2

「わめかず、言い争いもしない」
困難な状況下でも、日本人は秩序を保ち続ける。。。

そんな日本人のいい所が
中国人記者の目に留まったのは歓迎できる。

シナ大陸に住む一般の中国人を見て、
彼らの事を多少でも知る人々には、
彼らの目にはそれが「驚愕」であったであろうことは容易に推測できる。

漫画で表現すれば、二つの目の玉が顔から飛び出した状況であろう。

記者が何を伝えたいか、この記事の内容そのものを読んで頂きたいと思う。

ところで、
「ウリとナム」の国の人だったら、彼らの目にはどう映るのだろうか? 

やはり「反」しかないのだろうか?












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共通テーマ:日記・雑感

「お人良し」は日本人の特徴の一つ [日本人論]

日本人の特徴

日本人はお人好しで、
他国の多様性を知らない人が多いような気がする。

一万年も続いた縄文時代から、
脈々と続く閉鎖社会の中で自然と身についてきた日本人にとっての常識が、
あたかも広い異質の世界でもあまねく通用するものと考えている節がある。 

周りが海で囲まれた自然の国境が外界との接触を阻み、
独自の閉鎖文化が形成されてきた日本。 

世界の他の文化などからかけ離れた、
独特の特殊世界にどっぷりと浸かり生きてきたがために、
異文化の何たるかを知る機会の乏しかった日本人には無理もないこと。 

でも、その無知故に、他国とのお付き合い上、道を誤る事が少なくない。 
どうしても自分の考える良識が最善と考える癖がある。 
その点が日本人の良い所でもあり、欠点でもある。

日本人が日本人同士でのお付き合いする分野では、
従来の日本式で問題なく事足るものの、
相手が日本人以外である場合においては、
相手を理解した上で、相手にふさわしいやり方を採用したいもの。 
その為には、広い世界のそれぞれに異なる多様性を学ぶことが重要。

人権を大切にする法治国家である日本が、
それと同じ価値観を尊重する国々とは、
それなりに上手くやっていけるかも知れないが、
世界はそんな国ばかりではないのは誰もが知る事実。 

例えば、
中国という一党独裁の共産主義国には、
人権などまったくないと言われる。

又、中国は人治国家であるのも疑いの余地がない。 

中国人にとっては、
自由などまったく無縁の世界に住んでいて、
農村の人が勝手に都会に移住することも許されない。 

言論の自由と言うものは全くない。 
共産党の意向に反することを言えば、
即刻とらえられてその口封じをされるようで、
国民は自分が思っていることを自由に言えないのだそうだ。

日本の国力が高いのは、日本人の教育水準の高さ故だろう。 
国が国民の教育に力を注ぎ国民のレベルを高める事で、
国を発展させてきたのだろうと思う。

白人の植民地支配時代のやり方と同じように、
中国では一般国民を愚民扱いしていて、
日本の様に国民を教育しようなんて意思はないみたい。 

十三億人以上の国民の殆どは愚民扱いにされ、
残りのごく一部の支配層が国の富みを独占しているのが現状の様子。 

そうした虐げられて愚民の間には、不満が絶えないが、
その不満を抑え込む為に莫大な予算が使われているとも聞く。 
不都合な情報遮断の為にも信じられない程多くの人員をつぎ込んでいる様子。

そうでもしないと、あの国は現状維持する事事態が困難だとも聞く。 

日本は自然体でok。 こんないい国ばかりではないみたい。













憲法改正の為の議論、大いにやってもらいたい! [日本人論]

http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS17H23_X10C16A2PP8000/

国全体の基本的な重要な問題だから、
「堂々と」やるのは、当たり前!

今まで議論して来なかった方が不思議。

不都合を改める事に、はばかる事なかれ!

大いに議論してもらいたい。












Uniformity of Japanese [日本人論]

Uniformity of Japanese

In Japan we have a candy called as “Kintaro-ame”.
http://www.bing.com/images/search?q=%e9%87%91%e5%a4%aa%e9%83%8e%e9%a3%b4&qpvt=%e9%87%91%e5%a4%aa%e9%83%8e%e9%a3%b4&qpvt=%e9%87%91%e5%a4%aa%e9%83%8e%e9%a3%b4&FORM=IGRE

It is a round bar shaped candy, on its section a face of “Kintaro” will appear whichever part of section you may cut.

Just like the “Kintaro” bar candy, you can see the “uniformity” among us general Japanese people as a special feature.

That’s why we do not have a habit to dare raise an objection to someone else’s opinion unless we find some grave reason we cannot overlook as it is, even if some minor discrepancy is available on its opinion or on its way of thinking.

Rather we have an inclination that we conform to the prevailing general situation. If it’s found that it would be good to conform to the situation, we give priority to the conformity by not uttering our own different idea.

It doesn’t mean that we would be unconditionally accepting the different idea. Simply we will be practicing [harmony] by not showing it an obvious rejection. We have our own independent opinion which will not be expressly uttered.

Such being the inclination among us Japanese, we do not have a chance to do noisy debating among our people. That’s why most of us in general lack the skill to do debating and look as if we were quiet on the surface.












日本人の「同質性」 [日本人論]

日本人の「同質性」

日本人なら大抵、誰もが知っている「金太郎アメ」。
長い棒状の形をしていて、その断面のどこを切っても
その切り口に均一の金太郎の顔が現れるあのアメ。

その金太郎アメの様に、日本人の特徴の一つに「同質性」がある。

だから、余程の事がない限り、余程重大な問題でもない限り、
多少の異論や考えの違いがあっても、
他人の意見に対し、あえて殊更自分の異論をまくし立てて表明する事はない。

むしろ、その場の雰囲気の大勢に同調する傾向が強い。

そこで調和するのがいいとなれば、調和を優先し、
自分の意見をあえて言わずに引っ込めてしまう。

だからと言って、本質的に無条件に同調してしまう訳でもない。
「和して同ぜず」を実践しているだけで、
自分の意見はきっちり持っている。

そうした傾向が強い為か、
一般的に日本では、喧々諤々の「討論」をする機会はまずない。
泡を飛ばして激論する機会がないので、
Debateする術には長けていない人が殆ど。














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