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日本人は、世界の異端児 [blog]
日本人ほど「集団」を活動の単位にする人種も珍しい。
それは有史以来、稲作を中心とする農耕民族であったため、
皆が同じ時期に、同じ農作業を協同する生活形態が、
身に付いた為だろう。 狩猟民族にはない行動様式だ。
永年身に染み付いているその無意識の生活様式が、
生まれながらにして、「仲間と群れる」ことに抵抗なくさせる。
その集まりを基礎に、成人後も集団で行動する。
それが一般の日本人の行動様式。
自分一人で、何かをやらかすというのは、スポーツ選手、
芸術家、歌手、タレント業などのように、
個人で大金を稼ぐことの出来る可能性のある分野のみ。
一匹オオカミが生存できる世界は、どれも厳しく例外的だ。
我々の姿は、いわば、いわしやアジのような小型サイズの魚が、
彼等をえさとする食物連鎖の餌食になることから、
我が身を守る為に集団行動を取るのと、どこか似ているようである。
集団でないと何も出来ないと言うか、
個人が責任を取らない形態になっている分野は多い。
皆で協議して、皆で決める。
その民主主義的なやり方で、不都合の発生し得る独裁とは違って、
理想的に聞こえるが、それは、実際には一番無責任なやり方。
だから、日本の政治家も行政に携わる連中も、
まずい結果になっても、誰も責任を取らない。
ある意味で、無責任社会。
一般の私企業ではあり得ないこと。
そのように「集団」で話し合い、決定し、行動する形態では、
お互いにいがみあっていては何も出来ないので、
どこか現実的なところで「折り合いをつける」ということをする。
つまり「和を持って尊しとする」という精神が必然の帰結となる。
我々の世界では、そのやり方が日常的に認められ、現実に行われている。
しかし、その「和を尊ぶ」精神は、どちらかと言えば、
「口角沫を飛ばす」という事態を招かない。
どこか、適当なところで落ち着かせるのが得意で、
「とことん議論する」という事がない。
だから、日本人は概して、論争下手。
納得の行くまで、とことん話し合うという習慣がない。
また、その話し合いグループの中で、
他に影響を与えかねない有力者がおれば、
その人の意見に、右へ習えすることも少なくない。
何が何でも、自分の意見を通す心意気のある人は
めったにお目にかからない。 それも、農耕型民族の特徴のようだ。
だから、場合によっては、
その中身に義憤を感じたりする場合も出てくることもあるが、
自分がその場を統括すべき責任者でもない限り、
積極的な関与は望めない。
すべては他人任せになる。
譲れないことが、もしあるとすれば、
それは自分が直接関わらざるを得ないこと。
自分の利益への関心だけが作用し、
それ以外では、関与を薄くし勝ちになる
それは有史以来、稲作を中心とする農耕民族であったため、
皆が同じ時期に、同じ農作業を協同する生活形態が、
身に付いた為だろう。 狩猟民族にはない行動様式だ。
永年身に染み付いているその無意識の生活様式が、
生まれながらにして、「仲間と群れる」ことに抵抗なくさせる。
その集まりを基礎に、成人後も集団で行動する。
それが一般の日本人の行動様式。
自分一人で、何かをやらかすというのは、スポーツ選手、
芸術家、歌手、タレント業などのように、
個人で大金を稼ぐことの出来る可能性のある分野のみ。
一匹オオカミが生存できる世界は、どれも厳しく例外的だ。
我々の姿は、いわば、いわしやアジのような小型サイズの魚が、
彼等をえさとする食物連鎖の餌食になることから、
我が身を守る為に集団行動を取るのと、どこか似ているようである。
集団でないと何も出来ないと言うか、
個人が責任を取らない形態になっている分野は多い。
皆で協議して、皆で決める。
その民主主義的なやり方で、不都合の発生し得る独裁とは違って、
理想的に聞こえるが、それは、実際には一番無責任なやり方。
だから、日本の政治家も行政に携わる連中も、
まずい結果になっても、誰も責任を取らない。
ある意味で、無責任社会。
一般の私企業ではあり得ないこと。
そのように「集団」で話し合い、決定し、行動する形態では、
お互いにいがみあっていては何も出来ないので、
どこか現実的なところで「折り合いをつける」ということをする。
つまり「和を持って尊しとする」という精神が必然の帰結となる。
我々の世界では、そのやり方が日常的に認められ、現実に行われている。
しかし、その「和を尊ぶ」精神は、どちらかと言えば、
「口角沫を飛ばす」という事態を招かない。
どこか、適当なところで落ち着かせるのが得意で、
「とことん議論する」という事がない。
だから、日本人は概して、論争下手。
納得の行くまで、とことん話し合うという習慣がない。
また、その話し合いグループの中で、
他に影響を与えかねない有力者がおれば、
その人の意見に、右へ習えすることも少なくない。
何が何でも、自分の意見を通す心意気のある人は
めったにお目にかからない。 それも、農耕型民族の特徴のようだ。
だから、場合によっては、
その中身に義憤を感じたりする場合も出てくることもあるが、
自分がその場を統括すべき責任者でもない限り、
積極的な関与は望めない。
すべては他人任せになる。
譲れないことが、もしあるとすれば、
それは自分が直接関わらざるを得ないこと。
自分の利益への関心だけが作用し、
それ以外では、関与を薄くし勝ちになる
2013-06-27 01:37
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