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理詰めの議論に長けていない日本人 [blog]

どちらかと言うと、概して日本人は、
議論好きではないように思われる。

何かの折にそれが必要な場合にも、
理詰めで議論をすることを避ける傾向があるようだ。

それは、本質をとことん追求するという姿勢に欠け、
周囲との調和により多くの重きを置くからだろう。
何が大事で、何がどうでもよい枝葉なのか、
全体がよく見えていない人も少なくないようだ。

とことん自分の主張を唱えて、
がんと譲らないという人を、
一般の中に見つけにくい。

それが、何故なのか、どういうことなのか、
根ほり葉ほり突っ込むことはあまりしない。

だから、それが「あらかじめ決まっていること」だったりすると、
その既成の事柄に首を傾けたくなるような矛盾があっても、
その既成事実を、不合理だとわかっても、
それを直そうとすることには消極的だったりする。

自分で考えることはあまりなく、
前例を重要視する傾向が強い。

思考の中心が自分ではない。
だから、より合理的に物事を考えるとか、
変革しようとする意識はかなり希薄。
自分では何もできない指示待ち人間なのだろう。

例えば、日本には昔から「判を押す」という習慣がある。
西洋の署名に当たるのが実印による捺印で、法的に意味を持つ。

それとは別に、日常的に「認め印」を押すという習慣がある。
それは過去からの習慣によるもので、
実際にはその認め印があってもなくても、
あまりその違いに大した意味はない。
ただ、形式的な気休めの意味しか持たない。
なのに、それに必要以上に拘泥する連中が現実にいる。
愚かなことだ。

株式保有者ならば、何度かその経験があるだろうが、
小額の配当金を受け取るための小額の小切手のようなものが
その配当時に送られて来る。

株の名義人保有者の住所と名前が、
配当額の他に明記されていて、
その名義人本人が郵貯銀行の窓口に赴き、
身分証明書を見せて、
記載の額の現金を受け取る仕組みになっている。

特定された受取人が、運転免許書などで本人確認できれば、
それ以上に何も不必要だと信じて疑わないが、
現実にはその受取人名義記載の横のあたりに、
登録された印鑑を捺印する場所がある。

郵貯銀行の窓口では、
押された印鑑が、
はたして要求されている正にその印鑑なのかどうか、
判断はできない。
現に窓口担当者は、
そのチェックが不可能であることを認めている。

然るに、その窓口担当者は、
その個所にどうでもよい筈の印鑑が、
押されていないという理由だけで、
その扱いを拒否した。

その所に判がなければ、社内の決まりで扱わないという
全く「意味のない理由」で、支払いを拒否したのだ。
運転免許書には、判別可能な写真がついているので、
それと目の前の人の顔を見較べると、
本人か別人か明確にわかるのに。

全く、不合理極まりない、アンポンタンのマンネリズム。
正当な受取人本人の権利執行に対する、
非合理的妨害以外の何物でもない。

そんな非暴力的主権侵害的暴力が許されるべきものだろうか?
多分支払い拒否を大みえ切って主張した御仁は、
世の中の基本的本質的ルールがまったくお分かりではない、
賢いガキだったのだろう。
議論する相手に値しない。
変なのに出くわしたその日は不運だった。




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